※めっちゃ昔に書いた文章です(笑)。リンタロの高校バスケが終わったタイミングだから2019年。
なんのために書いたのか、、、、今では分からないけど、偶然見つけたので載せときます!--
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先日、長男リンタロの高校バスケが終わった。
ほとんど1回戦しか勝ったのを見た事がなかったチームが、4回戦まで勝ち上がり、出来過ぎといえば、出来過ぎな最後のシーズンでもあったが、だからこそチームも親も、「その先」を期待して、想像してやまなかった。時には一回戦すら勝てなかったチームだったのだから。
高校スポーツは、トーナメントの前半は週に一回日曜日に試合が行われる。
よく考えればこれは大変な事だ。
もし、すべての試合が1日や短期決戦で終了するんだったら、ある意味勢いや集中力やムードを持続させる事は、それほど難しくはない。
でも、どんな素晴らしい試合をしても翌週までの一週間、そのいい状態を持続させる事はとても難しいのだろうなーと思う。
それが何週も続くとなったらなおさらだ。プロ野球だって、一晩寝たら別のチームのように大敗する事だってよくあるんだから。
そんな訳で、リンタロのチームは、4試合目、つまり1ヶ月後に敗れた。
高校生にとっての一日と、僕たち40代のおじさんにとっての一日の密度は、きっと全然違う。まるで精神と時の部屋にでも入っているかのように、彼らの体自体も1ヶ月間で成長し続けているし、その間に背が伸びた子だっているかも知れない。日々、ドキドキしたり、新しい勉強を習ったり、好きな子に告白して振られて絶望したり、親友の言葉に、心を抉られたり。もしかしたらその一ヶ月に人生が変わるような出会いや出来事があったとしてもなんの不思議でもないような日常の密度で、高校生は生きているのだろう。そんな肉体と精神が成長、変化し続ける中で、昨日と同じプレーをし続ける、なんて、僕には想像できない。
でも、だからこそ、たとえば10年前に初出場の佐賀北高校が甲子園というトーナメントの日々の中ですら成長し続け、全国制覇をしてしまう、なんていうミラクルも若者は起こす事もできるのだ。本当に若さは素晴らしく、同時に儚いガラスのようなものなのだろう。「ガラスの十代」とはよく言ったものだ。
話は変わるが、自分の子供が球技の集団スポーツをする場合、もどかしいのは、子供達が、いい場面でパスをする事だ。
「もうー、いまシュートすればよかったのに、、、。」
こんなもどかしい思いで子供達のスポーツを見ている親はたくさんいると思うし、僕もまさにその一人だ。
いろいろな展開があるにせよ、いつしかチームを応援している気になっているにせよ、最終的には自分の子供がフィニッシュをするシーンを見たいのだ。親という生き物は。そしてできる事なら自分の子供がゴールをして欲しいし、できる事ならそのゴールが決勝点にでもなれば、もう天にも昇るような気持ちが味わえる。その夜のお酒は格別だ。
根本的には、父親、母親に関わらず、親ってそういうものだと思う。
でもこれは親に限らずとも、きっと皆経験がある事なはずだ。たとえばサッカーワールドカップ。「もうー、なぜ柳沢、そこでパス???」と日本人全員がゴール直前でのパスにがっかりする。(ネタが古いですが。)まだゴールが決まれば
いいが、それで外れた時には、シュートした本人よりも、パスした側が超ブーイングにあうのが、日本。とにかくパス、パス、パス。パスの上手な選手はどんどん育つが、肝心のフィニシャーが育たない、フォワード不足。これはサッカーに限らずすべての集団スポーツで言われている事のように思う。(最近のバスケ界は少し変わってきているけれど)
でも、そんな目で今の日本の社会を見渡してみる。
「郵便、いつ届きますか?」「こちらではお答えできません」とパス。
「この道路について質問したいんですが、、。」「そこについては、道路課で、、、。」とパス。
「緊急に連絡先を知りたいんですけど、、。」「申し訳ありません、個人情報なので、、、。」とパス。
「保障については、保障会社に委託しており、、、。」とパス。
最近、大学にしても、企業にしても、大きな組織であればあるほど、どんどん「明言」を避けるようになってきている。要は、「自分たちの発言がフィニッシュにならないように」、というのが今の日本社会の統一ルールになりつつあるのが現状で、それがクレーム社会の最大のリスク回避のマニュアルとなってきているのだ。
要は、「必ずパスで終わる事」「シュートは絶対に打たない事」というのが、自らのリスクを最小化するために必要な常套テクニックになってきている。最近では新入社員はきっとこういうテクを研修で叩き込まれるんだろうなぁ。まぁ、どうでもいいけど。
スポーツの話に戻るけれど、スポーツ選手がスポーツ選手であるのはフィールドの上にいる限られた時間だけで、普段生活しているのは、実はこういう社会だ。子供達が育つ環境もこんな社会になりつつある。そんな社会なのに、試合では、「パスするなよー。」なんて、なんという矛盾なんだろう、と僕は思う。環境が人を作るのにね。
でも、逆に、こんな社会だからこそ、せめてスポーツや漫画の世界では「パスではなくシュート」を見たい、というのが社会の真逆の欲求なんじゃないかとも、僕は思うのだ。これが表しているのは、やっぱりみんな、本当は「パス」ではなく「シュート」をしたい、社会においてもできればゴールを決めたい、郵便物は、明日には届きますから安心して下さいね、と一度でいいから断言してみたいんだよ本当は、、、。という潜在的な人間の欲求なんじゃないかと思うのだ。
さて、御多分に洩れず、僕もそんな親だった。自営業だから、案外シュートを自ら打つ機会は多い。でもだからこそもあり、3人の子供達のスポーツを見続けてきて、いつももどかしかった。そんなチームの中には必ず、我の強い子供がいて、パスもせずゴールまで突き進む選手がいる。家に帰るたんびに、「もうー、なんであそこでパスなの??外れてもいいからシュートに行けばいいじゃん、◯◯くんみたいにさ。◯◯くんみたいなプレーを目指すべきだよ。」と言い続けた。
そんな子供たちのスポーツを見続けてきてもう10年以上経つのだけれど、
ある時、リンタロのプレーを見ていて、僕のこんな考えが根本的に変わる瞬間があったのだ。プレーというか、リンタロという人格の持っている本質がようやく分かってきた、というのがきっと正しい。
第二子として生まれたリンタロは、3人の中でもちょっと変わった子だった。
真ん中の子は変わってる、というアレなのかなーとも思ったが、どうもそれだけでもなさそうに僕には思えていた。
普通子供というのは、なんでも独り占めしたがるものだ。独占欲の発露、というのは、子供の成長段階の一つのステージである。それはまずはもともと一体であった母親を独占したい、という表現から始まり、その後、お菓子でも、おもちゃでも、「自分のもの」を「自分から引き離す」事は、なかなか難しい。貸したり分けたりするのは、「また返してもらえる」という未来の感覚や経験が身につかないと無理で、それは人間の一つの成長のステップであり、最初はなかなかできない事なのだ。大人だって土地を買ったら、他人に入りたがらせないのだから独占欲、というのはどこか人間の本質でもあるのだろうと思う。でも、リンタロは小さな時から、それが不思議なくらいに簡単にできていた。もらったお菓子でも、親だろうが、友達だろうが、欲しいという人には、ニコニコと分け与え、言われなくても「パパも食べたい??」と言ってくれた。あまりに毎回だから、それは優しいとか、気前がいいとか、そういうレベルの話でもないんじゃないのかも?とある時から、僕は思うようになった。そんな性格だから、気がつくと人にあげすぎて自分が食べる分すらない事すらあったからだ。でも、それでも悔しがる事もなく、泣く事も、癇癪起こす事もなく、いつもリンタロは幸せそうに、ニコニコとしていた。
中学生になって、高校生になって、成長するにつれて、僕はリンタロが学校でどんな風に過ごしているのか、正直、よく分からない。何が好きで、何を夢見て、何に感動して、何に胸がかきむしられるような悔しさを感じているんだろう。
身長はあっという間に僕を追い越した。そういえば、小6くらいの時に、「あれっ?パパ、小さくなった??」とリンタロが不思議そうに呟いたのが懐かしい。
高校3年生になった最後の大会。
リンタロは、チームのスターティングメンバーに選ばれるようになった。
バスケ自体は下手だけど、足だけはずば抜けて早いから、誰よりも早くゴールまで駆け抜ける。「そこでシュートを!」と相変わらず成長のない僕は、リンタロにその先のプレーを期待してカメラを構える。でも、リンタロは惜しげもなく、そのボールを味方にパスする。よく見ていると、同じ選手にだけパスしているのではなく、その時その時、相手は違うようだ。時には入ったばかりの選手、突然出された下級生、試合慣れしてない親友など、試合の状況、新しく入った選手の状況を案外、冷静に見て、パス、パス、パスのリンタロ。しかしあんまり上手じゃないから、そのパスも通る時もあれば、通らない時もあって、やっぱり見ている親はもどかしい。つい「あーーっもう。」と言いたくなる。パスをもらった側も、緊張でガチガチの時もあって、シュートが入らない事も多い。でも、そのパスが通った時、友達のシュートが決まった時、リンタロはコート上で、見た事もないくらいに幸せで、嬉しそうな顔をする。そして選手に駆け寄ってハイタッチ。プレイ中には見せないくらいの高さに飛び上がって喜んでいる。
あぁ、こういうだったの事か、、、。自分の取り分も忘れてお菓子を友達に全部分けてしまう小さな頃のリンタロと、高校3年生のバスケ選手になった今のリンタロが、僕の中でなんだかつながった気がしたのだ。
単純に彼は、そもそも自分一人じめして食べたり、自分一人でゴールを決める事には、それほど喜びを感じないのかも知れないなー、と。
それよりもむしろ、周りの人や友達が喜んだり、嬉しそうだったり、美味しそうだったりする姿に、彼は至極の喜びを感じるタイプなのかもしれない。
リンタロが、あまりに嬉しそうにコートを駆け回り、飛び上がって喜びぶ姿を見て、最近僕は、そんな風に思いを巡らせている。
かたや僕は、46歳になってもいまだに、いつか皆を出し抜いて「ミラクルシュートをい決めてやろう」と考えている(笑)。いまだに僕の座右の銘は、「翼よ、点の取れるミッドフィルダーになれ!」というロベルト本郷がノートに残した言葉だ。でもそんな事は、彼にとっては大した事ではないのかもしれないなぁ。自分に置き換えると、なんともお恥ずかしい想いだ。最近はそんな風に見えるリンタロを、「なんと大人なんだろう?」と思うと同時に、どうやらリンタロは、僕の想像の範囲に収まらない超大物なんじゃないだろうか?と思うようになってきた。
「シュート」か「パス」か。
これはきっとスポーツを語る上で、そしてプレーする上での永遠のテーマだろう。でも、そんなリンタロのおかげで、僕の考えが最近は、ガラリと変わりつつある。そもそもスポーツをやってるのは、選手なんだから、まずは自分の幸せや喜びのためにやったらいいと思う。それが自分にとって「シュート」だったら、シュートを打てばいいし、「パス」も案外捨てたもんじゃない。
時にはむしろ勝ち負けすら、さほど優先ではない、という価値観もあるのかも知れない。
シュートやパスや勝利や、敗戦。
それは、スポーツをある一面から見た時のわかりやすい記録でしかない。
5段階評価の通信簿みたいなものだ。でも社会に出たら、通信簿は発行されない。
だから本人が、
「いつかどんな未来を描きたいのか」
という理想の大きさのほうが、圧倒的に大切なのかも知れないなー、と最近は思うようになった。
その未来ははっきり明瞭としているのか、ぼんやりしているのか、
まだ自身でも気がついてさえいない、ただの心の衝動なのか。
いづれにせよ、
そんな素晴らしい若者のチャレンジに、親が口出す事は一つもないのだ。
少なくとも、多少の怪我はものともしない肉体は手に入れたようだ。
それだけあれば、とりあえずは大丈夫。
あとはただ、陰ながら見させてもらおう。
いつの日か、僕に向かって強烈なパスが飛んでくることがあるだろうか?
今はそんな楽しみがあるだけだ。