明日の全体講評会に先だって、先週グループ内の発表会をしました。

ゲストには、いつも構造設計をお願いしている名和研二さんと、細田くん。
僕は授業で毎週話しを聞いているけれど、
初めて会う人に伝える、っていうコトがとても大事です。

名和さんには、別に構造的なアドバイスを、、、、っていう目的ではなくて、
名和さんはとても広い視点をもっていて、
一見、見過ごしてしまうような問題や気づきを、
ユーモアとアイディアに変え、ていつも僕たちに新しい視点を与えてくれる人。
学生達にはとてもゼイタクですが、僕が伝えられないようなコトを、
学生達につたえててもらえたらいいなぁ、、、と思ってお願いしました。

ケンチクとはなんだろう?

街って、なんだろう?

生き生きしているって、どういうことだろう???

僕たちが生きている世界は、ケンチクだけでできてる訳じゃないし、
ケンチクなんて、もしかしたらなんの力もないかも知れない。
そもそもケンチクなんて、もう新しくつくらない方が、いいのかも知れない。

でも、僕たちの産まれてきた、そしていま生きている背景には、
いっつもケンチクがあって、
どんなに世界がフラット化しようと、グローバル化しようと、
ネットでなんでも買えちゃう世界になっても、携帯電話が体に埋め込まれようと、、、、。
やっぱり、どんな社会になっても、そこには子供たちがいて、
小さな段差や、くらやみや、すき間や、においや、ボロボロや、
新品や、雨漏りや、工事中や、、、、、いろんな理不尽だらけの街が、
その場所に産まれてきた子供たちには、とても魅力的な、初めての世界になるのでしょう。

宮崎駿が、引退の記者会見で、何のためにアニメーション映画を
創ってきたのですか?という問いに対して、
「、、、それでもこの世界は、生きるに値する、という事を伝えたかった。」
と言ったんですが、たぶん、僕たちがケンチクを作る意味って、
きっと同じなんじゃないかな、、、、と思うのです。

悲観的な事や、事件や、ケンチクなんて、、、、っていう意見や。。。。
いろんな考え方や視点はあっていいんだけど、、、、
やっぱさ、、、ワクワクしたいじゃん。。。。

そういう、もはや建築学科でも、大学でも、なんでもない、
だれとだって、子供たちとだって、共有できるようなシンプルな動機こそが、
いちばんのエネルギーだと僕は思います。

そういう想いさえなくさずに持ってたら、
進む進路が、建築だろうとなかろうと、
もはやそんなコトは、どうだっていいのだ。
だって、何でワクワクするかって、人それぞれ違うからね。。。。。
いや、むしろ、全部がケンチクにつながっているのだ、、、。
、、、と、
そんなコトを、それぞれの学生達が、考える時間になってくれてたら、
うれしいな、と思いました。
そうそう、今回も、名和さんから素敵な言葉をいただきました。
「正解は、真理の近傍にある。」
たとえばもし、建築にも、数学みたいに正解というモノがあるのだとしたら、
1人の天才が、問いに対して正しい答えを出していけば、
まちがいなくそれで素晴らしい街になっていくだろう。
しかし、実際はそうではない。
もちろん、そういう設計もできない事はないけれど、すべての理屈や筋道が通っていて
減点のしようがない正解として作ってみたものが、必ずしも魅力的だったり、
愛されるモノになるとは限らない。
だから正しいから、正解。
とするのではなくて、どう考えても正しいけれど、、、、、、。
「、、、うーーーん。なんか、チガウ、、、。」
というように、もしそこに自分が感じる違和感があるのなら、
そこにしがみついて、素直に向き合って、
時には正しさを捨てたり、正しさからズレる勇気を持つコト。
だから、必ずしも正解=真理ではなくて、
正解は、あくまで真理の傍に、真理から少しずれたところにあるんだよ。
だから、みんなにそれを探す可能性があるんだよ。
というような事でした。。。。。(たぶん)
うーん、深い。
さ、明日、楽しみ。
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