
それが、1人で出来ないケンチクの、一番の特徴でもあるし、
また魅力でもあるし、
また、学生時代に、一番もどかしい部分でもあります。

じゃあ、実現できない大学の課題って、一体何なんだろう?
それは、ただのエソラゴトなのだろうか?
僕もそんなコトを考えていたし、ちょうど、3年生ってきっと、
そんなケンチクのもどかしさを、感じ始める時期でもあります。

だから、少しでも、リアルに近づこうと、
一生懸命、先輩に聞いたり、現実とすりあわせてみたり、
少しでも、リアリティーのあるものに、少しでも、本当にできるものに。
そう思うのは、ゼンゼン間違っていません。

さて、先日の、西久保班発表会。
みんなそれぞれ、自分が取り組んだテーマに、良くも悪くも、
真っ向から向きあって、それぞれ個性的な提案となりました。

彼らと過ごした時間や、プロセスは、とっても有意義なもので、
ほーんと、人間って、ひとりひとり、ぜーんぜん違うんだなぁ、、、と
つくづく感じた時間でしたし、
こいつら、どういう道を進んでいくんだろう、、、?
とヨケイな事まで想像しながら、僕は楽しんでしまいました。

ホントに、それぞれ、
きっとピッタリな道があるような気がするし、
それがケンチクでも、ケンチクでなくても、
そんな小さなコトは、どうでもいいなぁ、、、
と正直思いました。

で、
そんなコトを思いながら、毎週指導してきたのですが、
一つだけ思うのは、最初に書いた事につながるんですが、
結局、ケンチクは、すがたかたちを持つものです。
そのすがたかたち、そのものが、
魅力的でないといけません。

それは、カッコいいとか、センスあるとか、
たぶん、そういう次元のものではなくて、
作り上げる世界観みたいなもの。
それが、見る人、接する人に何かしらの予感をもって伝わるコト。

なんかいいよねっていう、予感を伝えられたら、
そのケンチクは、実現していくだろうし、愛されるものになるのだと思います。
そして、その予感は、
絶対に、建築学科や、ケンチクカなんかの同業者だけに理解されるものでは絶対にダメで、
子供にだって、伝わるくらいの明らかな魅力がないとダメなのだと僕は思います。

それが、いーちばん、大切で、
そういう意味では、学生の課題だってなんだって、
社会でやるコトと、全く同じなのです。
要するに、伝わるかどうか?
伝わるためには、どうしたらいいか?
10のコトを伝えるためには、10を目標にしちゃダメで、
100伝えるつもりで、やっと10伝わるという事。
ついつい、慎重になって10を正確に伝えようとしてやしないか?
安全な10本のシュートで、10点取ろうとしてやしないか?
それは、絶対にだめ。
はずした90本のシュートが、実は、予感として、残り、伝わるもの。
ようするに、10点取りたかったら、100本のシュートを全部決めるつもりで
打たないといけないっていうコト。
10本のシュートでは、せいぜい、1.2点しか取れないのです。
サッカーでも、ケンチクでも、その辺は一緒。
でも、100点目指したら、14点くらい入っちゃうかもなんです。
10のコトを伝えれば良い場所で、100目指したら、きっとバカだと思われます。
だから、バカになるコトが、一番大切。
大胆であれば、幸運をつかむ。
いいかわるいかは、問題ではないのだ。
そんなコト、他人に決められてたまるか。
そのくらいの気持ちでやってると、
もしかしたら、ピリオドの向こうが見えるかも知れない。
正直、みんなよりも、
いろんなコトに気がつくのがずいぶんと遅かった僕は、
39歳を目前にして、、、、、いまだにそんな気持ちなのです。。。。。ははは(大汗、、、)