場所は、風花っていう、恵比寿のバーみたいな場所。

そういえば、前の個展もバーだったなぁ、、、、
そんなコトを思いつつ。。。。

たとえば、ケンチク雑誌みたいに、ケンチクをケンチク単体として見せられても、
なんか気持ちが悪いと言うか、それはあんまりハッピーなケンチクとの出会い方ではない。
だから、僕は正直、あんまり美術館とか、好きじゃない。
絵が、エラそうだから。
だって、ケンチクはそれ単体で存在するものではなくて、
まわりの風景や、通りすがりの人や、家族や、家具や、草や、風や、雨や、、、、、
そうそう、
そういうおおざっぱに言うと生活や、日常、
というものと同時に存在するもので、どちらがエラい訳でもなくて、
どっちもなくてはならないもの。
生きる、という中に自然と同時にあればよいくらいのもの。
なくてはならないものは、
大抵、そういう風に、まじり合う混在の中にある。

僕は絵とか、よく分からないけれど、きっと絵もケンチクも同じで、
日常の、何気ない風景の中に、そっと差し込まれているくらいだと嬉しい。
たとえば、本の栞みたいに。

僕らは、カンカクを閉じたり開いたり、時々研ぎすましたりして暮らしている。
流れる音楽や言葉に耳を澄ませる事だって出来るし、聞かない事だって出来る。
雑踏の中で、かわいい女の子にだけ集中することだってできるし、
フィールドの中で時間をとめて、パスコースがすっと見える事だって ある。
きっと僕らの中には、優秀な五感のボリュームスイッチがあるのだ。
だから、出会い方の順番はどちらでもいい。
美味しいごはんを食べて、ふと見上げて気がつく絵があってもいいし、
絵を見にきて、出会うお酒があってもいい。
気持ちが忙しくて、結局、絵の存在に気がつかなくったっていいかも知れないし、
好きな人との長続きしない会話のダシになってもいい。
ただ確実で、変わらないのは、そこにある、というコト。
日常にあふれる言葉の中で、忘れられない言葉と出会うような。

コトバの森の中で、気に入った落ち葉と出会ったら、
そっと本にはさんでおこう。
はさんだ事を、僕は大抵忘れちゃうけれど、、、、、。
コトノハノ下で
そんなコトを考えました。
まぁ、ただ飲んで帰っただけっていえば、
飲んで帰っただけですけど、、、、、。
【関連する記事】