2010年03月14日

パブリックアート

ノノのダンスの発表会のついでに東京フォーラムへ行ったら、
安田侃さんの彫刻がごろりとおいてありました。

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おおきなそら豆のような、どろっとしたスライムのような、
さわると人肌のような、
たまたま置いてあって明日はなくなってしまいそうでもあり、
でも、圧倒的な質量と、重さがあり、
ずーっと昔から、そこに存在したようでもあり、
見ただけで人間が何やっても、壊れなさそうな強固さもあり、、、、。

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以前から好きだったんですが、
こういうのは、ホントコドモ達はすぐ感じ取っちゃいますね。

「何をするためのものでもない。」

のに、夢中で遊びはじめます。


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ちょうど、僕が大学を卒業する直前に、似たような彫刻にであう機会がありました。
そのころ、僕は自分がしたいことって、ケンチクじゃないかもなぁ、、、、。
雑誌に載ってるケンチクで、好きなのないし、、、、。
と、考えていて、ケンチクの勉強は放ったらかしに、コドモの研究、、、というか、
コドモのいる場所をひたすら見て歩いていました。

、、、、ただの現実逃避ですけど。

で、コドモの場所の専門家になれたらなぁ、、と思いつつも、
そんな目で世の中の「コドモのため」に、つくられた玩具や、遊具や、
公園や、保育園や、学校をみるのですが、どうも、どれもこれも、
魅力的ではありませんでした。

なんていうか、どれもこれも、あからさまに「コドモのため」的なデザインで、
コドモにこびたような色使いや、すがたかたちをしていました。

さぁ、登って滑りなさい、といわんばかりのすべり台。

ここで登って、ここでくぐって、、、、とあらかじめ使い方を想定された遊具。

でも、僕が見て来たコドモの世界は、とくに特別なデザインがなくったって、

たとえば、縁の下があるだけで、
たとえば、ちょっと隠れられるすみっこがあるだけで、
たとえば、薄暗いだけで、
たとえば、ちょっと段差があるだけで、

果てしない遊びが繰り広げられていました。

むしろ、コドモのために作られていなければ、いない程、
実は、コドモ達にとっては、魅力的な場になるという矛盾。

うーーーん。。。。
と、そんなコトばかり考えていたなぁ、、、、。


そんな頃に、であった大きな石の彫刻がありました。
ただただ力強く、いびつな形で、
安田侃さんのと同じように、べつにコドモのために作られたものではありません。
でも、その彫刻のまわりでは、いろんなコドモ達の遊びが繰り広げられていて、
とても楽しそうでした。
他にも遊具はたくさんあるのに、なぜか毎日、その石のまわりにはコドモ達が
たえません。


あぁ、僕がやりたいのは、こういうことだな、、、。
こういう場所をつくりたいんだな、、、、。


10数年前のコトですが、
それがちょっと、ハッとした瞬間でして、
それから設計が楽しくなったのを覚えています。

ずいぶん、遅いですが、、、。

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ここで遊ぶコドモ達をみて、
久しぶりにそんなコトを思ったのでした。


そういう意味では、パブリックアートも、ケンチクも同じですね。

無愛想であればあるほど、いい。



家で酔っぱらって寝ている、父親みたいな、、、、、。
posted by 西久保毅人 at 01:46| 2010.1月〜3月の気づき | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする